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4 真実(1/3) |
4 真実 向田は情けなくも床にへたりこんでいた。額には茶色い前髪が張り付いている。 「はい、お・み・ず」 カウンターにグラスを置くコツリという音。 「椅子があるんだからかけなさい」 カウンターの向こうには黒のワンピース姿の女がいる。向田は長い脚を引きずるようにして立ち上がると、カウンタースツールに腰掛けた。グラスの横にはご丁寧にもお絞りまで置かれている。向田はグラスの水を一気に飲み干した。 「た・・・すかり・・・た」 ようやく酸素の回りだした頭で、向田は何故に加藤がこの路地に自分を押しやったのかを理解し始めていた。 「ここ・・・タチカワさんのお店なんですか」 「あーら。あたしの名前、憶えてたんだ。へーえ」 化粧気のない生白い顔。ほんの少しだけ笑みをたたえている。 「じゃあ、拾い甲斐があったってものね」 「あったってもんじゃありませんよ。マジ、助かりました。もう駄目かと」 立川香奈は小さく鼻で笑うと向田に背を向けた。 「店・・・何時からスか?」 「今すぐ開けるように見える?」 「いや、でも・・・」 「出たければ出なさい。あんたの責任でね。あたしは御免よ」 香奈は背を向けたままボトルをチェックしている。 「あたしはどうでもいいのよ。あんたが道端で死んだって、どうってことないんだから。でも博康さんに迷惑かけるようなことになったら、あたしが許さない。いいこと?」 向田は香奈の背に向けて『了』と頭を動かして見せた。 「蒼士・・・大丈夫かな」 「あの子は心配いらないわ。あんたも知ってるでしょうに。とんでもないやんちゃでチョロ松なんだから」 「はあ・・・・」 「遠慮してるの?それ、使っていいのよ」 「あ、いえ」 お絞りを開いて顔に押し当てる。熱気が心地よい。気化熱で顔のベタつきが一気に取れる。 シンとした店内。先刻までのドタバタは一体何だったのか ―――
この路地に押しやられた時には既に限界に近かった。第一、高校で部活を辞めてからこの方、こんなに走ったことなどない。胃袋と肺がくっついたような切迫した苦しさ。 ビルの入り口。少し陰になっていた。リレーのアンカーがゴールするときのように一気に走り込んで、そして倒れ込んだ。郵便の集合受箱の端に側頭部をガツンとぶつけたが、痛みを感じる余裕すらなかった。 しばらく休もう、それからどこへ逃げようか。加藤はどうしたのだろうか。戻って来てくれるのだろうか。そんな考えが頭の中をぐるぐると回った。 ビルの陰から様子を窺うべく身を乗り出そうとした時だった。背後から襟を掴まれて、グイと引っ張られた。 そして連れ込まれたのがここだった。
(イテ・・・・) ぶつけた側頭部に手をやると、少し腫れていた。この歳でタンコブだなんてと、情けなくなってくる。 「・・・・とはどうなの?」 不意に問われてハッとした。 「は?」 「仲良くやってるのかって訊いてるの」 「蒼士と?冗談・・・」 香奈は僅かに眉をひそめて 「なんでもないわ」 「え?何なんですか?」 シンクで布巾を洗いながら香奈が瞼を上げた。向田と視線が合う。前屈みのふっくらとした胸元が女らしい色気を漂わせている。化粧をしている方が若く見えると向田は思った。 「あ、ヒロ・・・じゃない、社長とですか?いや、それなら世話になりっぱなしで・・・」 香奈がふと笑った。しょうがないわね、とでも言いたそうだ。絞った布巾で手を軽く拭いながら奥のテーブルに向かう。 「前にも言ったかしらね。博康さんがどうしてあんたみたいなコを手元に置きたいと思ったのか不思議だって」 「憶えてますよ」 本当に良く憶えている。初対面での立川香奈の印象は最悪だった。 「寂しかったのね、きっと。助手を亡くして随分経つし」 「助手?」 「あら、聞いてない?」 前屈みになってテーブルを拭っていた香奈がこちらに顔だけを向けた。 「マサミくんのことよ」 「マサミ・・・さん・・・ですか」 きょとんとしている向田を認めて、またしょうがないわねの表情になる。 「なんだ。本当になんでもないみたいね」 「どういうことなんスか?オレ、マジなんにも知らなくって」 「いいのよ。知らない方が身のためかも」 「・・・・そうスか」 向田は感じていた。立川香奈にとって自分は邪魔な存在なのだ。初対面のときからそれはハッキリしていたのだが。 香奈の感情を抜きにしても、徳川や加藤の生活環境において自分が邪魔な存在であることに違いはない。社長の肩書きに傷でも付けることになったらと、不安で仕方がない。頼みの警察もどこまで動いてくれるのか分からない。実家に戻るわけにもいかない。かといって先刻追いかけてきたようなわけの分からない連中に捕まるわけにもいかない。 身の置き所がない不安と寂しさ――― 「はーっ・・・・」 向田はカウンターに両肘を着いて頭を抱えた。カウンターの向こう側では再び水音がしている。 「水割りでも飲む?」 「・・・・昼間からスか?」 「ここはお酒を出すのが商売なの」 向田はそりゃそうだと、ぷっと笑ってしまった。 「でも持ち合わせがないんスよ」 「奢りってわけにはいかないんだけど」 香奈は飾り棚からボトルを選び出した。向田の目の前にコツンと置く。ボトルのネックには印籠のおもちゃがかけてあった。向田は笑った。 「この紋所が目に入らぬか!ってやつですか?」 「そ」 言わずと知れた葵の紋。徳川博康のボトル。外国産の十七年物だ。 「勝手に飲んじゃ、まずくないスか?」 「いいのよ。一本空くのに何ヶ月も掛かるんだから。不味くなる前に飲んじゃった方がいいの」 向田は、あはと笑った。 「そっか。あのひと飲めないんだ」 「なによ。そういうことは知ってるのね」 香奈がグラスに氷を入れる。 「イケる口?」 「まあまあ・・・かな」 「じゃあ濃い目に作るわよ。それともロックにする?」 「いや、やっぱ一杯目は薄いのでお願いします」 香奈がくすと笑った。 「身の危険感じてるでしょ」 「いや、そうじゃないスけど」 マドラーで水割りを掻き回す音を聞きながら、向田は 「蒼士、どうしてんだろ」 「そんなに心配?結局仲良しなんじゃない」 「いや。ていうかオレ、のんびり酒なんか飲んでていいのかな」 「もうじき電話でもよこすと思うけど。はい、ど・う・ぞ」 初対面の印象サイアク同士でグラスを合わせる。カチンと小気味のよい音が静かな店内に響いた。 向田は水割りを一口飲んだ。鼻から香りが抜ける。 「これ・・・美味い」 「うちに不味いものがあると思って?徳川の直営店なのよ」 「そりゃあそうですけど。でも美味いですよ。こういうのは飲んだことがない」 向田は一気にグラスを空けた。香奈は訊きもせずに二杯目はロックで出した。オールドファッションド・グラスに大きな氷が一つだけ入れられている。向田は軽くグラスを傾けて氷をくるりと回した。 「この店に不味いものがないことはよく分かりました。だったら、訊いてもまずくはないですよね。徳川社長のことも、マサミってひとのことも」 香奈が笑った。しょうがないわねという表情で首を傾けている。 向田は知りたかった。知る権利があると思った。木庭丈之伸にしろ加藤蒼士にしろ、徳川博康の周囲には正体不明の人物が多すぎるのだ。中でも徳川が失って『寂しい』と感ずるような人物――マサミとはどういう人物なのか。自分に代わりが勤まるとしたら?徳川に世話になってばかりで申し訳ないと感じている向田はなんとか徳川の役に立ちたいと思っていたのだった。
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テーマ:自作BL連載小説
- ジャンル:小説・文学
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